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思索

主眼は文章

引用すればいいだけの話だけど、やっぱり参照する上でも若干リンクが張りづらいのでせめてidで日付くらいは入れてほしいなあと思ったり。まあそれはいいとして。

例によつて「正論」で返されてしまつたけれども――ただの人、「旧かなで書きたければ古文で書け」と云ふ「現代仮名遣」派の阿呆な要求は嗤はなかつたよな。なんで俺の事だけ責めるんだ? 「文字の問題と言葉の問題をごちゃ混ぜにしてはいけないね。」と言ふのなら、俺を責める前に、俺に意地惡を言つた連中に先づ文句を言つたら良いだらう。俺は、「旧かなで書いているのに現代語で書いているのは気持ち悪い」と非難した連中に言返してゐるのだから。

結局、野崎氏も意見に関しては言及するつもりはないのかな。少し残念。

僕は、文章それ自体の問題に文字の問題を持ち込んだことに対して異論を述べているつもりだったのだけど、それについて何も言及してくれないのならば困る。「正論」とか、ほかの人にはそういう意見を言わなかった、とかただの文句を述べてもらうために僕は書いたのではないから。

確かに、公平性を欠いていたかもしれない。「旧かなで書きたければ古文で書け」なることを言う人がいたならそれもあわせて批判すべきだった。その点は反省している。しかし、たとえ公平性を欠いていたとしても、「文章の問題と文字の問題を一緒にしてはいけない」という意見を無視することはそれも公平性を欠いているように思える。僕は先日の文章で野崎氏に関してしか言及していなかったけれど、結局は同じような態度をとる人全てに対し言っているのだから。

正直なところ、『私の国語教室』を読んだことがないから正かなの正統性とか、よくわからない。あるいはそちらが正統で、それについて僕も理解すれば正かなのほうがいい!と言い出すのかもしれない。ただ、現段階で文化の正しさとか、そういったものがどういうものなのか全くわからないから、文字に関してもなにが正しいのかはわからないし、そういうわけで言及できない。しかし、言葉を表す手段という意味で、自分の言葉をあらわすのに適した方法をとろうとするのは至極当然で、また言葉を伝えるという意味を考えるとそちらのほうが正しいと僕は考える。すなわち、正かなのほうが言葉を正しく伝えられるのならそちらのほうが正しい。

こんな風に書くとまた「正論」とか言われてしまいそうで、そうなってしまうと僕も何もいえないのだけれど、じゃあ間違った論を述べることが正しいのかって言えばそうじゃない。いったい僕はどう意見すればいいのかな。うまく意見を述べられるようにならないとな。

あとなんか、野崎氏は勘違いしているようだけど、先日の「過は往々にして罪」という記事で言いたかったのはあんまり欲張ると痛い目をみるよってことなんだけれども。大学で何でもかんでも興味がある講義とろうとしたら、それぞれに対する理解が全部低くなってしまって学んでいくのに支障をきたしそうだったから。あくまで現実的な観点から見て、一度にたくさんに手を出しちゃだめだなということ。現実問題としてね。

言葉とか文字とか

文章が、人間の書くものであるのなら、現代的な文體と云ふものが、果して良い文體であると言へるのか。「現代仮名遣」的な文體――と言ふより、そもそも「現代仮名遣」は、御役所での文書で用ゐられる爲の規則であつた。それを一般人が普通に書く文章で用ゐるのは、果して良い事なのか。案外多くの人が、自分の文章の非人間的な事を反省的に見ないで濟ませてゐるやうに思はれる。

文章というのは文字ではなくて言葉で成り立っているのだから、現代仮名遣いだろうと正かなだろうと関係ないと僕は思う。言葉が仮名使いによって規定されるとは到底思えないし、現代の文章が味気ないと感じるのは、おそらく、単に味のある文章を書ける人物がめっきりいなくなってしまったのか、あるいは、単に趣味・嗜好の問題。 文字の問題と言葉の問題をごちゃ混ぜにしてはいけないね。

正かなも現代仮名遣いもうまく使えなければ下手で滑稽に見える。現代仮名遣いで整った文章を書いて、それが滑稽に見えたとして、それを正かなで綴ったところで滑稽に見えなくなるとは限らない。

仮名遣いなんてものはやはり結局単なる手段に過ぎないのだから、自分がこちらのほうがいいと思った仮名遣いを使えばいいと思うし、無理にどちらかを他人に薦めるというのはあまりよい態度とは思えない。もちろん自分が信じる方のよさを主張するのは一向に構わないけれども。

議論や研究発表などをする場合は意見が正しく伝わるように、また今の時代ならば後々にも参照できるように文章を書くべきだし(そのためにどういう仮名遣いがよいのかは議論の余地がある)、あるいは小説などの表現としての文章ならば書き手が選んだ表現方法ならばどんなものでもかまわないとは思う。

暴論と極論と

ただ氏は、「議論が進むやうに穏やかに意見を述べる事」が必要だと述べ、「暴論・極論」とは「感情的に激しい調子で意見を述べる事」だと考へてゐる。それに對し、鉄山氏は「論理的に徹底させた意見」と定義してゐる。同じ言葉で違ふ事を考へてゐるから、話が噛合はない。

感情的に激しい調子ではなくて感情的な意見という風に書いたつもりだったのだけれど、わかりにくかったかな。

そもそも、暴論と極論を一緒にするのがよくないな、と僕はついさっき気づいた。暴論は「乱暴な意見」のことだし、極論は「論理的に徹底させた意見」。全然違う意味なのに一緒にして話をしたから全然違うことを考えてしまうのだな。ちなみに僕はおよそ暴論の方で考えていた。

僕は暴論・極論を排斥しようとは一切考えていない。ただ僕自身がそういう風に意見を出さないようにする、といっているだけで、極論を言う人は言ったって構わないし、それは意見として排斥してはいけないとも考えている。僕の言葉が足りなかったのかもしれないけれど、先日の記事ではあくまで僕のスタンスを述べただけだから、暴論・極論は排除すべきとは微塵も考えていない。それどころか、先日の記事の最後で書いたように、暴論・極論を出す人、可能な限り穏やかな意見を出す人、それと第三者がいて、議論が進むのだと僕は考えているから、むしろそういった暴論・極論の類を述べることを良いと思っている。

それから、僕の言う穏やかな~というのは空気読め的な態度のことではなくて、暴論・極論にはならないような意見を出すことだから、そこも(僕が言葉足らずだったとはいえ)誤解されている。しばしば言っていると思うけど僕は議論等を通して自分を反省して、新しいものの見方を得たり、また考えを深めたりしたいと考えている。だから議論の最中に方向がいろんな方向へ飛んでしまってもそれはそれでよいとも思っている。(だからニコ動の話題からこの話題に飛んだこともこれはこれでよい)

ただ、これだけは言っておきたいのだけれどあまり暴論は出すべきではないと思う。「論理を突き詰めていった結果としての極論」は議論において有用であると思うけれど、「論理が破綻した感情的な意見としての暴論」は議論において有用であるとは思えない。そこでは言い方なんて次の問題で、おしとやかに言おうが乱暴に言おうが、それが暴論である以上議論における有用性は低い。だからその意味で暴論はなくすべきだと思う。

蛇足。内容のある暴論は暴論じゃなくて物言いが乱暴な意見だな。

議論すること

先日の鉄山氏との議論に関して、他の方から指摘があったので一応参照。僕からはJunkieta氏の意見に関していうことは特にないです。

Web上で議論することの最大のメリットはこうして直接議論していない人の意見も得られるということ。そこから反省もできるし、新しい考え方も得られる。その点でWeb上のリソースは可能な限り参照可能であるべき。

ところで、鉄山氏曰く、暴論や極論はどんどん吐いたほうが良いとのことだけれど、僕は多分今後も意識的に暴論・極論は避けていくと思う。確かに暴論・極論を出すことでよくよく考える機会が生まれるかもしれないけれど、どうしても感情的な意見になってしまうとそこで議論が終わりがちになってしまうから。

どちらか一方が暴論を吐いているだけ、というのならまだ議論を続ける余地がある。だけど、双方が暴論・極論を持ち出してしまうとそのときはもう議論でもなんでもなくて、ただ言いたいことを叫びあっているだけ、ということになってしまう。もちろん、それを第三者が見た場合には、その第三者がその件に関して考える機会が生まれるのかもしれない。そこから、その人が意見をして、そこから議論が発展していくかもしれない。それもまたよいとは思う。でも、別にそれは暴論・極論でなくても十分起こり得ることなのだから、僕はわざわざ暴論・極論を出そうとは思わない。

そういうスタンスを取る人がいて、また僕のように可能な限り穏やかに議論を進めようとする人がいて、あるいは第三者の意見があって、議論は進んでいくのだと思う。

ただ、僕は比較的ぬるい環境でここまで育ってきたから日和見的なところはあるかもしれない。そこは少し注意していかないとな。

最後ということで

まずはじめにさっきの記事でうっかりタイトルを付け忘れていたことをわびたい。いや個人のブログだから別にいいのかな。まあ参照する上で不便だろうので、一応つけておきました。

BLOGという名の日記 - 仏の顔も三度

これ以上の議論は泥沼にはまるだけだろう、ということなので、僕もこれでこの件については最後に。いろいろと勉強になったので最後にもう一度僕の考え方というか、意見というかをまとめる形で。

まず、mixiやらpixivやらニコニコ動画といったいわゆる「閉鎖的なコミュニティ」という存在も僕は認めるということ。ただ、これらはインターネットの理念(一応ここでは最初のものとしておく)というものにはそってはいないし、外部から全然見えないのはよくない(この時点で意見が矛盾している?)。でもまあ、インターネットというシステムをよりしろとしている遠隔地との交流手段としては別にあってもいいんじゃないの、見たいな感じ。正直なところ、この辺については僕はどっちでもいいや、という感じ。ただ鉄山氏のように無価値だ!とかそういう風に否定ばかりするようなのが僕にはどうも理解に苦しむ、というだけ。

馴れ合いとか、流行とか、確かに冷静になって考えてみれば実にくだらないもので、ばかげているのかもしれない。でも、その中にある人はその中で何かそこでしか得られないような経験というものを得ているはずで、僕はそういうものの価値を認めたい。そこから何も生まれないかもしれないし、何か物凄いものが生まれるかもしれない。そこでの経験から音楽とか、小説とかを生み出すことに目覚めて百年後も評価されるような作品が生まれるかもしれないし、そうでないかもしれない。僕はそういう可能性があるのだと信じているから、そういうものを認める。

確かに、相手の非を指摘しあえるのはいいことだと思うし、友人関係というものはそうあるべきと思う。だから馴れ合いばかりやるというのは良くない。馴れ合いもよいことではあるけれど、悪いことでもある。一概に物事を言うことは難しい。うん、実に難しい。だから僕たちは議論をするのだよな。

それから、僕の作品をニコニコ動画に投稿している―――するという件についてだけれど、これはこれからも続けるつもり。文字情報としては後に残らないかもしれないけれど、僕の作品を見た人の経験としては残ることは間違いないのだから、それはそれで構わない。僕が作っているものは作品であって情報ではない。単純に文字のみの羅列ならば媒体によらないけれどそこに別の価値を加えればそのときは媒体に依存する作品となる。機械にとってみればどちらも単なるデータに過ぎないのだろうけど人間がそれを知覚したときには体験としてその人に残るのだから、僕はそれでよい。僕は僕の作品を誰かに読んでもらって、そこで何かを体験してほしいと思っている。だからテキストのままが良いと判断すればこのサイトなりなんなりで文字の羅列として発表するし、あるいは動画コンテンツなどにしたほうがいい、と判断すればそうする。それを発表する場はニコニコかもしれないし、ここかもしれないし、youtubeかもしれない。ただ今はニコニコ動画を選んでいるというだけ。

僕は決してリソース主義ではないから、必ずしもリソースが残るようにするべきとは考えない。僕は(たとえ趣味の範囲だとしても)小説家だから、もし読んでもらえるのなら批評とかの前に、読者に何かしらの体験を、僕の作品から得てほしいと考えている。僕は別に評価されたくて書いているわけではない(とはいっても評価してもらえればすごく嬉しい)。

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